
端的に信頼していない証拠です。建前や言いかたはともかく、管理することで相手に心理的束縛を与えて居ます。管理されるのは楽という人もいますが、私は管理されることから逃れてきている方なので、管理されだしたらとことん逃げます。ただたtだ嫌なのです。反骨精神、あるいは天の邪鬼。管理できるものならしてみろよ、とばかりにあらゆる手を使って出し抜くだけです。自分の損得は二の次なので、ただの馬鹿ですし損の方が多くなりますが、管理下にある自分は自分ではありません。大人になれなんていう諫言は世間に迎合しろと同意ですので、鼻白むばかりです。自分あるいは多く一般的価値観で管理する以上は、私も自分の価値観と権利を主張します。
そもそも、他人が自分の思惑通りに動くなどとは思い上がりにすぎませんし、例えそれが相手のための諫言や忠告であっても、自分の道を変えてまで準ずることはありません。なぜなら自分には自分の世界があります。それは自我です。自我を押し殺して準じていけばやがて破綻していき、多重人格の道を辿ることになります。
己が正義のことを言っていても、その正義は主観的なものにすぎません。その時点で狭窄的な正義で、二元論で考えれば悪を生みます。
誰にも責められたくなければ、正論で諫めればいいのですが、そんな正論に個性はなく、極めて一般論に落ち着くのは必然です。一般論はすなわち常識です。ということは、誰でも知って居て当たり前で面白みもない平坦な人生で、それは平凡で幸せなのかも知れませんが私にはまったく魅力を感じさせてくれません。
諫言は参考程度に聞きますが、おおむね想像から逸脱するような思考ではありませんので、聞くだけであって刺激にも糧にもなりません。
人に責められたり、怒られて育たざるをえない環境に居た人はわりとこうした固定観念に囚われていて、その自分が信じて居る観念に沿って生きて居れば他人に責められても、正論で反論することにより自我を保つことができるようです。
イリーガルに育ってきた私としては、受け入れがたいものがあります。
他人と言うものは無責任が基本です。それなのにいちいち一つ一つを聞いていたら息は詰まるし、自分自身の人生を見失います。
責任という言葉は、逃げ口上の一つです。いわゆる大義名分です。大人たるもの責任を全うするのが当たり前と肩肘張ってますが、じつはそれとて環境がそのように間接的に要求しているだけであって、そういった要求に対してばか正直に応えていると自分がなんなのかを見失うことになります。
打算だらけの人生はくそくらえです。私には私の道があります。それに付いてきたければ、仲間は多い方が楽しいですので一緒に事をなしとげましょう。付いてこれなければ応援してください。それが無理なら距離を置いてください。
孤高などというものではなく、自分と自分の世界観が大好きなのです。
これがモチベーションであり、自分の糧であり自分自信なのです。
興味があるのなら興味を示してください。
理解したいのならば理解してみてください。
世間との軋轢が怖いから、ぶつぶつ言いながらも今の環境に身を置いているだけということを知ってください。自分が居なくなっても本当に困る人など実はいないということを知ってください。実は管理をしたがる人というのは、管理をすることで相手にとって自分が必要な人間なんだということを意識的にせよ無意識的にせよ、刷り込ませようとしているのです。言葉を選ばずに言えば、自分の寂しさを紛らす道具にしているということです。